ヨナ書1 章1-16 節
さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。・・・しかし、ヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。(ヨナ1:2-3)
もう放映が終わってしまいましたが、朝ドラ「あんぱん」の主人公・のぶが、嵩(たかし)に対して投げかけていた言葉が、「嵩! たっすいがーはいかん」という言葉です。土佐弁で「脆弱になるな」「怖(お)じ気づくな」「独りよがりにくよくよするな」というような意味です。「あんぱんまん」がまったく日の目を見ない長い年月、のぶが嵩を励ます際にも語られた言葉で、関係文脈の中で、叱咤(しった)であったり、逆に深い励ましだったりします。
『ヨナ書』は、ヨナの「たっすい」(怖じ気づく)な様子を描く書です。ヨナは何に怖じ気づき、どうしてくよくよしてしまったのでしょう。ヨナは、イスラエルの敵国アッシリアの首都ニネベの人々が、主(ヤハウェ)の裁きによって滅びてしまうことを強く望んでいました。ところが、主は大きな憐れみをもってニネベの人々を救済しようとするのです。ヨナは、そうした主のスケールの大きな愛に絶えきれず、拒絶し、主の使者として働く役目に脱力して「たっすい」してしまうわけです。彼はニネベと正反対の方向に向かって逃亡します。このようなヨナの「たっすい」(脆弱さ)は、「敵は滅ぼされなければならない」という「敵と味方を二分化した上での勝利感」を背景としていると言えるでしょう。つまり、独善的な正義感や応報主義こそが、彼の脆弱性の本質なのです。しかし、主はヨナを追いかけ、語りかけます、「ヨナ、たっすいがーはいかん。」ヨナの「たっすいがー」(脆弱さ)は私たちに問いかけてきます。それは、勇ましさや根性が足らないということではなく、自分の正義・信念・感情にしがみついて、主の憐れみの大きさを受け入れることができない、ということなのだと思います。「罪人」や「敵」が、主の愛と慈しみによって赦されることを受け入れることができないことなのだと思います。『ヨナ書』は、主がヨナに(あるいは独善的な正義感に駆られる人々に)「ヨナ、たっすいがーはいかん」と向き合い続けている物語のような気がします。
10 月1 日、米国のヘグセス国防長官(戦争長官に改め)が世界中の米軍の将軍や提督ら800 人を集めて大演説をしました。「平和主義は危険だ。愚かな敵はこの戦争省の暴力と精密さと獰猛(どうもう)さに潰(つぶ)される。もうバカみたいな交戦規則に縛られず、敵を挫(くじ)き、殺せ。最大の殺傷力を持て。戦士の権威を発揮せよ!」この勇ましさこそが、主の大いなる愛の御心に怖じ気づいた姿です。「トランプ! ヘグセス! たっすいがーはいかん」。吉髙叶